アフリカ「発見」―日本におけるアフリカ像の変遷 (世界歴史選書)

  • p43

1611(慶長16年)、ヌエバエスパニア(メキシコ)総督の使節、セバスチァン・ビスカイノ(Sebatian Vizcaino(1551頃−1615)は、沿岸測量や交易の許可、オランダ人貿易の禁止を求めて来日した。使節らが江戸城駿府城に向う時には、30人近い従者が、国旗、王旗、歩兵旗、長銃、小銃、楯、太鼓を持って行列を組んだ。ビスカイノ自身が残した報告によると、鼓手は「黒奴」であった。ビスカイノは測量のため仙台へ赴くが、その折にも彼らは「黒奴」の鼓手を同道させた。すると、仙台でも安土桃山時代の「黒坊主」騒動さながらの大騒ぎとなった。ビスカイノは当地を訪れた最初の白人であったが、群集は鼓手の「黒奴」に熱狂し、「其の黒きを除」こうとまでした。見物人のあまりの多さに、ビスカイノは人々からお金をとれば、一攫千金も夢ではないとまで思う。「何となれば諸所に於て彼を見ん為め集りし人の数は二百萬を越えた」からであった。[ビスカイノ金銀島探検報告/セバスチァン・ビスカイノ著、1614年筆、1867年刊、村上直次郎訳『ドン・ロドリゴ日本見聞録/ビスカイノ金銀島探検報告』異国叢書5、雄松堂書店、1966年復刻]

  • p82

環海異聞:1793年仙台石巻港アリューシャン列島のアンデレイッカ島→イルクーツクサンクトペテルブルグデンマーク→イギリス→カナリア諸島→ブラジル→マルキーズ諸島→カムチャッカ半島→長崎(1804年)の様子を仙台藩士らの取り調べた内容を記したもの。


−p96,33
仙台伊達藩士玉虫左太夫:1823年(文政6年)仙台伊達藩士の家に生まれた。1846(弘化3年)年脱藩し、江戸で学問を修める(林復斎に師事)。後の外国奉行、堀利○に仕え、鋭い観察力と短時間に詳細かつ克明に記録する能力をいかんなく発揮したのが認められ、正式に帰藩していなかったにもかかわらず、遣米使節随員の一員として参加。帰国後正式に藩籍にもどり、学頭副役となる。1863(文久3)年、食塩製造論を書き、1865(慶応元)年気仙沼で製塩場の建設に着手。しかし「奥羽列藩同盟」結成に関与したことから藩内で対立し、捕らえられ、1869(明治2)年4月切腹。享年47