読売を読んでいたら、千々にくだけてについての書評が掲載されていた。
なんとなく、自分とは焦点の合わせ方が違っていて、それはそれで楽しかった。

この作品の中から一段落をあげよといわれるなら、下記になるだろう。
「帰ったあとに静江に説明する日本語をエドワードは頭の中で作ってみた。妹の、しかし血のつながらない妹の、知り合いが、二人、殺された。しかし、殺された、といわないで、亡くなった、と日本語で言うのだ。ぼくは何もなかった。ちょっと足止めを食っただけだ。ただ、日本語で何と呼べばいいのか、お母さんの再婚の相手のむすめは。その知り合いが、二人、亡くなった。そしてそのようなことを電話で知らされた人は、先週、たくさんいた。」

しかし、一番すきなのは、冒頭の
カナダの海辺と松島のそれとの比較の部分。

一面に銀紙が敷かれたように海が光りだしているのが見え、その先には繁った松林がびっしりと埋めつくす、暗緑色の小島がいくつも現われた。

暗緑色の小島がさらにはびこり、その間の澪には、やはり水銀のような水がゆっくりと流れていた。
ほら、松島とは反対側の夏の海も千々にくだけている、と自分の気をまぎらわせる、そんな日本語を思い浮かべた。島々や、千々にくだけて、夏の海、と芭蕉の松島の句に集中しようとした。

All those islands!
Broken into thousands of pieces,
The summer sea.

まつしまや、しまじまや、ちぢにくだけて、なつのうみ